今年79歳になる母は画家で、さいたま市で30年間画廊Mを経営している。先日年に一度のペースで開かれる母の個展に出かけた。ここ3年ほどは毎年誕生月の2月に開かれているのだ。今回の個展のテーマ「地球・宇宙」にちなんで、物理学者の端くれである娘の私が招かれ、個展に集まって下さった人たちと「美術と科学」というテーマで話をすることになっていた。
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実はこのイベント、お客さんはどのような方がいらっしゃるのか当日の朝になってもまったく不明であったが、今年の年賀状で母は次のように案内をしている。<頌春・・・私こと今年は来る2月11日より1週間、北浦和の画廊Mにて「地球・宇宙」をテーマに作品展を開きます。会期中15日午後1時よりAK(理学博士)を招き、「美術と科学」について話し合いを行います。・・・>AKというのはもちろん私のフルネームだ。やれやれえらい堅いなあというのがこの文面を見た私の感想で、はたしてお客さんが実際に集まるのかさえ内心ではいぶかっていた。 |
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「美術と科学」とはあまりにも曖昧模糊としたテーマで、当日画廊に向かう電車の中で自分の話すべき内容をあれこれ吟味していたがいっこうにはっきりしてこない。こまったもんだと思いながら東急線の中吊り広告を見上げたところあるコピーに目がとまった。それは、<魂のこめられた映像は見るものの胸を熱くする>というような文面だった。おそらくケーブルテレビか何かのコマーシャルだろうと軽く受け流していたが、電車を降りる間際にアッ!と思った。「そういうことは本当に起こるのか?」その問いに対する答えが「YES」であることを「美術」に関して、母は30年も画廊を経営することで示しているのであり、「科学」に関して私が人々に伝えたいと思って悪戦苦闘していることであると気付いたからだ。
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当日蓋を開けてみるとお客様は5人集まって下さった。かつて高校の数学教師をしておられ、現在熱心に絵を描いていらっしゃる女性Aさん。「恐竜が大好きです!」と目を輝かせ自己紹介された画家のK氏。常に母のよき理解者で書をなさるHさん。さいたま市の女声コーラスで母と長年のお付き合いのあるお二人。
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<物理のかたりべちゃん>をはじめた私と、母の画廊Mの共通点は「うまくいかないことにとことんこだわること」である。母は30年前に「売れない」画家の発表の場を地元につくりたいという願いから画廊を開いた。ところでふつう一般の「売れる」画家と画商(画廊)の関係は、建築家と施主の関係とほぼ同じと考えてよいだろう。それが市場を形成するためには売り手と買い手の目的が一致しなければならない。施主は例えば会社の社屋、あるいは自分が住むという目的で建築家に建物の設計を依頼する。そこではその目的にあった機能が十分に実現されているという意味で、「よいデザイン」が施主と建築家の間で共通に理解される。一方、ある表現の芸術的な価値とはなんだろう?それは「特定の目的→よいデザイン」の図式に沿ったものをもちろん含むが、美術や文学さらにはいわゆる「説明のための科学」に共通するはずの美学的価値はこれにとどまらない。伝える側はそこに「魂を込める」。(いきなり「説明のための科学」という言葉が出てきてしまい恐縮だが、その意味を伝えるのが「物理のかたりべちゃん」のテーマ。興味がある方はこちらを是非読んでみていただきたい。) |
人が世界を観察するとき、対象が宇宙でも地球でもリンゴでもよいが、それを十分掘り下げることで 一般化し、さらにその先へ行って「 どうしてこうなるのか?」という問いを発することは 重大な一歩である。その問いに対する「説明(=理論)」を人に伝える手段としてある表現を選ぶ。そこに確かに魂がこめられ、さらにそれが他者の 感動(=理解)を呼ぶことは可能だろうか?それがもし難しいとしたら、その理由としてはどのようなことが考えられるのか?絵描きが絵の具とキャンバスですることを、何故現代の科学者は数学や方程式によって行うのか?そのようなことについてあれこれ2時間ほど楽しく話し合うことが出来た。
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子供のような「探求者たち」が期せずして同席したような楽しい会だった。画家のK氏がおっしゃった言葉で、「自分でうまくいったと思う作品は、案外大勢の人にほめられる」というのが印象的だった。「科学理論もそう!」ということを何とかして人々に伝えるのが、私のライフ・ワークだという思いをさらに深めた一日だった。
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